住所:東京都品川区東品川 2丁目2番24号天王洲セントラルタワー
TEL:03-5715-8651(代表)

沿革

        浅村特許事務所の沿革

浅村特許事務所は、日本で最長の歴史を有する特許事務所です。
今年で創立130周年を迎えました。


初代専売特許局長 高橋是清氏(左)と浅村特許事務所初代所長 浅村三郎(右)(1934年(昭和9年)撮影)高橋是清氏が3度目の大蔵大臣の際に、大蔵大臣執務室で撮影された写真です。
写真横には、「昭和9年6月19日 高橋是清」と記した高橋是清氏ご自身直筆の署名があります。
現物の写真は、浅村特許事務所の受付ホールに掲示しています。
高橋是清氏についてはこちらをご覧ください。







浅村特許事務所の歩み歴史的出来事
1883年(明治16年)パリ条約(11か国署名)締結
1884年(明治17年)「商標条例」が制定されました。
1885年(明治18年)
・高橋是清初代専売特許所長(後に管制改正により専売特許局長、特許局長)の尽力により、「専売特許条例」が4月18日に制定されました。
1954年の通商産業省(現経済産業省)の省議決定によって、この4月18日を「発明の日」と制定しています。
・農商務省工務局専売特許所が設置されました。
1887年(明治20年)
浅村三郎は、特許局初代特許局長であった高橋是清氏の招きにより、農商務省専売特許局開発課に審査官として入局しました。国民の関心は低く出願がほとんどない状態であったため、審査官はもとより高橋是清局長も自ら街頭宣伝をしたり展示会を開催するなどして、国民の発明への関心を高める活動をしたとのことです。
      
           高橋是清
   専売特許所 所長時代
    (高橋是清署 「高橋是清自傳」より引用)
1890年(明治23年)
・浅村三郎は、民間に発明の発想をうながし、創作活動を振興するため、自らが発明を認識してもらうしかないと考え、また、民間人を直接啓蒙してもらいたいとの高橋是清局長の示唆もあって、特許局を退職しました。
・浅村三郎は、他2名と東京特許代言社を設立しました(我が国初の特許事務所)。出願する人はほとんどない時代のため、直ぐに閉鎖されたようです。
1891年(明治24年)
浅村三郎は、今後商工業は大阪を中心に発展するとの見通しから、大阪市北浜において大阪特許代言社を設立し、初代所長に就任しました。
この大阪特許代言社が、現在の浅村特許事務所となります。
高橋是清氏が、初めての仕事だけに心配して時々代言社を見に来てくれた、というエピソードもあったそうです。

初代所長浅村三郎
1894 年(明治 27 年)~1895 年(明治 28 年 )日清戦争
日清戦争で日本が勝利し、明治維新以前からの懸案であった欧米主要国間と結ばれていた不平等条約で最たるものであった通商航海条約の改正がありました。この改正により、特許条例等の国内法の整備が進められました。
1897年(明治30年)国際知的財産保護協会(AIPPI)が設立されました。
1899年(明治32年)
大阪特許代言社は、特許代理業者として登録を行いました(第5号)・特許代理業者登録規則が制定されました。弁理士制度の起源となります。
・特許条例、意匠条例、商標条例は、それぞれ特許法、意匠法、商標法に法名称と供に改正(明治32年法)されました。
・日本が、パリ条約(ベルヌ条約)に加盟しました。
1904 年(明治 37年) ~1905 年(明治 38年 )日露戦争
1905年(明治 38 年)実用新案法が制定、施行されました。
1906年(明治39年)
浅村特許事務所が、外国出願手続きを開始しました。
1914 年(大正 3 年)~ 1918 年(大正 7 年)第一次世界大戦
1921年(大正10年)・大正10年法に改正(特許法、実用新案法、意匠法、商標法が全面的に改正)されました。
・12月16日に弁理士法施行令が公布されました。
   
   大正時代の特許査定謄本
神戸、京都、福岡、東京に出張所を開設しました。

大正時代事務所案内図
大正時代大阪事務所風景
大正時代事務所応接室
1922年(大正11年)
浅村三郎は、農商務大臣より弁理士会設立委員・特別委員に任命され、弁理士会会則草案の作成に尽力しました。
大正11年発行事務所案内
弁理士会設立総会が開催され、弁理士会(現在の日本弁理士会)がスタートしました。

     
      大正時代の商標公報
1934年(昭和 9年)
初代専売特許局長 高橋是清氏(左)と浅村特許事務所初代所長 浅村三郎(右)(1934年(昭和9年)撮影)高橋是清氏が3度目の大蔵大臣の際に、大蔵大臣執務室で撮影された写真です。

高橋是清氏(左)と
浅村三郎
・不正競争防止法が制定されました。
・特許庁の新庁舎が麹町区三年町(現在の場所)に完成し、玄関正面に高橋是清氏の胸像が飾られました。

   昭和9年 特許庁新庁舎
(出典:市川一男 日本の特許制度 日本発明新聞社 より抜粋)

    高橋是清氏の胸像
(出典:特許庁 建設大臣官房官庁営繕部編集 特許庁庁舎の記録 より抜粋)
・特許法施行50周年。新庁舎で高橋是清氏が「特許局の思出」と題する記念講演を行いました。

特許制度施行50年記念展覧会関係者
   (中央は高橋是清氏)
(出典:市川一男 日本の特許制度 日本発明新聞社 より抜粋)
1936年(昭和11年)
・浅村成久が、浅村特許事務所第2代所長に就任しました。
・大阪の事務所は、浅村成久の兄である浅村良次が継ぎ、浅村成久は東京丸の内ビルヂング(丸ビル)7階にあった東京事務所を独立させ、浅村特許事務所所長となりました。
  2代目所長 浅村成久
 戦前事務所案内
 旅行会
1939 年(昭和 14 年) ~ 1945 年(昭和 20 年)第二次世界大戦
1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発
事務所設立50周年を迎えました。
1945年(昭和20年)
男子所員は召集され、女子所員は疎開したため、所員は浅村成久所長のみとなりました。技術院が廃止され、商工省特許標準局(現在の特許庁)が設置されました。
1947年(昭和22年)日本国憲法が施行されました。
大阪事務所は空襲で消失し、又浅村良次の病没に伴い、事実上解散しました。
東京事務所が、大阪での取扱業務を継承しました。

戦後直後の丸ビル
1948年(昭和23年)
特許標準局の標準関連業務が商工省の外局として新設された工業技術庁に移管され、特許局が設置されました。翌年(1949年)に特許庁となりました。
1949年(昭和24年)
外国案件の取り扱いを再開しました。
浅村特許事務所が、海外出願(アメリカへ)の戦後第1号出願を行いました。
連合国人工業所有権戦後措置令が施行され、米国、英国その他の連合国の国民は、太平洋戦争開戦の日に遡及した優先権を主張して特許等の出願を提出すること、料金不納により消滅した特許権他の権利の回復を出願すること、期間満了によって消滅した商標権の存続期間更新出願をすることが可能となり、当所も対応しました。
1957年(昭和32年)
・浅村特許事務所は外国案件を多く手がけるようになったことから、事務所名を浅村特許事務所から浅村内外特許事務所に改名しました。
・東京丸の内ビルヂング(丸ビル)8階に移転しました。

丸ビル
(写真提供:三菱地所株式会社)
1958年(昭和33年)
増員対応のため、東京大手町にある新大手町ビルの完成と同時に、事務所を新大手町ビル7階に移転しました。
新大手町ビル
(写真提供:三菱地所株式会社)
1959年(昭和34年)現行法といわれる昭和34年法が施行され、特許法、実用新案法、意匠法、商標法が全面的に改正されました。
1962年(昭和37年)
第2代所長 浅村成久が弁理士会会長に選任されました。
1963年(昭和38年)
所員が80名を超え手狭になったことから、新大手町ビル3階へ移転しました。
1969年(昭和44年)
年間取扱件数が1万件超(90%は外国関係の案件)となり、当所と関係のある外国代理人(事務所)数は400、外国への出願国は150か国を超えました。アジア弁理士協会(APAA)設立
1970年(昭和44年)
2月に浅村内外特許事務所の関連会社として、(有)浅村技術サービスを設立しました。
社長に、浅村成久が、後に、浅村 肇が就任しました。
この会社が現在の(株)スリーマストとなります。
1973年(昭和48年)
・1月に浅村 皓が、浅村内外特許事務所の第3代所長に就任し、浅村 肇が副所長に就任しました。浅村成久は相談役に就任しました。
・(株)浅村事務センターを設立しました。社長には浅村成久が、後に、浅村 肇が就任しました。

3代目所長 浅村 皓
1976年(昭和51年)
2月24日 弁理士法会則の改正により、「浅村内外特許事務所」が正式な当所の登録名称となりました。
1978年(昭和53年)・PCT(特許協力条約)、EPC(欧州特許条約)が発効され、パリ優先権出願との組み合わせ出願等ができるようになり、国際出願のルートが多様化しました。
・特許協力条約に基づく国際出願等に関する法律(国際出願法)が施行されました。
1984年(昭和59年)
事務所に汎用コンピュータを導入し、願書作成、期限管理、権利維持(年金管理)、経理関係をシステム化しました。
コンピュータシステム導入
1985年(昭和60年)
・中国からの研修生の積極的受け入れを開始しました。
・所長 浅村 皓に、通商産業大臣表彰が授与されました。
工業所有権制度100周年。
記念メダル(初代特許局長 高橋是清氏の肖像をメダルに刻んだもの)が発行されました。


記念メダル
1990年(平成2年)
特許庁の電子出願受付の開始日(12月1日)に、オンライン出願を開始しました。
出願部・特許担当部門
1991年(平成3年)
浅村内外特許事務所が設立100周年を迎えました。
事務所を設立した日は、初代所長浅村三郎の誕生日である10月25日としています。
創立100周年を記念して、所内公募による当所のサービスマークを商標登録しました。
当所のサービスマークは、浅村のイニシャルAの小文字筆記体を船の帆になぞらえ、特許事務所の業務である特許、意匠、商標を3本のマストとして図案化し、第2世紀の大海原に乗り出していく姿勢を表したものです。

100周年記念写真 新大手町ビル屋上

事務所サービスマーク
1993年(平成 5年)
第3代所長 浅村 皓が弁理士会会長に選任されました。
1995年(平成 7年)知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS協定)が発効されました。
1999年(平成11年)
所長 浅村 皓に、弁理士会特別表彰が授与されました。マドリッド協定議定書(マドプロ)に日本が加盟しました(効力発生は2000年)。
2002年(平成14年)知的財産基本法が成立されました。
2005年(平成17年)・知的財産高等裁判所が設立されました。
・インターネット出願が開始されました。
・特許審査ハイウェイ(PPH: Patent Prosecution Highway)が開始されました。
2008年(平成20年)
浅村内外特許事務所から特許業務法人浅村特許事務所と法人化し、名称も変更しました。
2011年(平成23年)
・天王洲セントラルタワーの21階、22階に事務所を移転しました。
・浅村法律事務所を設立し、初代所長に、浅村昌弘弁理士・弁護士が就任しました。

天王洲セントラルタワー
2012年(平成24年)
・(有)浅村技術サービスを(株)浅村技術サービスに組織変更しました。その後(株)浅村技術サービスが(株)浅村事務センターを吸収合併し、 合併後の新会社として (株)スリーマストを設立しました。
・(株)スリーマストの社長に、浅村昌弘が就任しました。
2013年(平成25年)
副所長 金井 建に、日本弁理士会特別表彰が授与されました。
2014年(平成26年)
・金井 建弁理士が特許業務法人浅村特許事務所第4代所長に就任しました。
・浅村 皓所長が会長に就任しました。
・浅村 皓に経済産業省より、知財功労賞 産業大臣賞が授与されました。
・浅村 皓は、アジア弁理士協会(APAA)名誉会長に就任しました。

第4代所長 金井 建
2015年(平成27年)意匠の国際登録に関するハーグ協定が、日本において効力を発生しました。
2016年(平成28年)
浅村知的財産価値評価サービス(AIVAS)を開始しました。
2019年(令和元年)
・浅村昌弘弁理士・弁護士が、特許業務法人浅村特許事務所の第5代所長に就任しました。
・金井 建が特許業務法人浅村特許事務所の会長に、浅村 皓が相談役に就任しました。
・(株)スリーマストの社長に、金井 建が就任しました。

第5代所長 浅村 昌弘
   
事務所受付                 事務所内風景

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初代
特許庁長官高橋是清について
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高橋是清(1854~1936)
略歴

専売特許所所長兼農林学校長
(明治22年36歳)

米国桑港(サンフランシスコ)慶應3年 14歳

明治6年21歳 左端

 1854年(安政元年)7月27日江戸(芝露月町(しばろげつちょう)現:東京都港区芝大門)にて川村家に生まれる。  
 生まれてすぐ仙台藩士の高橋家に里子に出され、2歳で高橋家の養子となる。14歳(1867年(慶應3年))にして英語修行として米国へ。米国では、手違いで奴隷となって働くことに。その間に明治維新(1868年)となる。15歳(明治元年)に帰国した後、肥後唐津藩で英語教師。
 その後20歳(1872年(明治5年))で文部省入省。23歳で東京英語学校(現:日本学園)講師、1878年(明治11年)大学予備門 (現:東京大学教養学部) 講師、共立学校(現:開成中学・高校)校長、教え子には俳人・正岡子規や文豪・夏目漱石、海軍中将・秋山真之(さねゆき)がいる。1881年(明治14年)に農商務省入省。
 農商務省では、調査課に勤務し、商標登録規則、発明専売規則の作成に従事。1884年(明治17年)商標登録所長、32歳(1885年(明治18年))に初代専売特許所長を兼務。1886年(明治18年)に米国∼英国~フランス~ドイツに出張し、特許制度の調査を行う。ニューヨークではタイプライタ―での印字に驚く等のエピソードもあった。帰国後特許法の作成に従事。1887年(明治19年)特許局を独立させ、特許局長。1890年(明治22年)に南米に渡り、ペルーで銀山開発に取り組むが失敗に終わり、無一文で1891年(明治23年)に帰国。

 同年、38歳のとき建設中の日本銀行本館の建築所事務主任として採用される。その手腕を認められ、46歳1898年(明治31年)日銀副総裁、1911年(明治44年)日本銀行総裁に就任、1913年(大正2年)大蔵大臣。
 1921年(大正10年)には、第20代内閣総理大臣兼大蔵大臣就任、同時に政友会第4代総裁。ダルマ宰相として親しまれる。1934年(昭和9年)岡田内閣では6度目の大蔵大臣となり、在任中の81歳1936年(昭和11年)、2・26事件に倒れる。ru


工業所有権制度に関するエピソード

 高橋是清氏が専売特許、商標登録といったものに興味を持つきっかけは、1874年(明治7年)ごろのことであった。当時、彼は文部省に教育制度確立のため雇われていたアメリカ人ダビッド・モルレー博士の通訳をしていた。
 かのヘボン博士が辞書を再版する際に、版権をとる方法についてモーレー氏に相談があった。是清氏が内務省に行って調べたところ、当時外国人にはいわゆる治外法権が存在し、日本の法律は彼らには及ばないため保護の途もないとのことであった。
 この際にモーレー氏が言われたことには、「日本には著作を保護する版権はあるが、発明・商標を保護する規定がない。外国人は、日本人が外国品をまねたり、商標を盗用して、模造品を舶来品のようにして販売していることを非常に迷惑に思っている。米国では発明、商標、版権の3つを智能的(知的)財産(Three intellectual properties)と称して最も重要な財産としている。日本でも発明・商標を保護する必要がある。」

 この話を聞いた是清氏は工業所有権の重要性を大いに感じ、大英百科事典の概略をたよりに、研究を進めたという。

 以後、是清氏は商標制度、特許制度の制定に尽力するのであるが、これには困難を伴った。商標制度については、暖簾(商号)と商標の混同が問題となった。東京商業会議所によると、暖簾とは永く忠勤した番頭に、その主家から分けて与えられるものであり、それを登録して登録者の専有物として、いっさい他人が使えなくするのは商習慣に反するとのことであった。

 しばらく後になって、東京商業会議所もようやくその区別を理解し、商標条例制定に賛成した結果、1884年(明治17年)に商標条例は発布された。
また、特許制度については、以前に発明専売略規則が制定された際、発明の審査にあたる者がいなく、多数の外国人を雇うのにも費用がかかるとのことで、結局執行停止に追い込まれた経緯があり、反対の議論が強かったが、1885年(明治18年)には専売特許条例が制定された。


 この後、是清氏は外国制度の調査のために欧米視察を行った。その際のエピソードであるが、彼は特許制度に関する資料収集に精力的に努めており、米国特許院が毎週1回発行している判決録等の資料を過去5ヶ年ほど手に入れたいと考えた。しかし、5年分となると莫大な額にのぼるため、無料でほしいと交渉した結果、日本版5年分と交換ということで折り合いがついた。だが、日本ではまだ出版していないので、出版したら以後5年分を送付するとのことに決まったという。

 また、是清氏は欧米視察のベルリン滞在中に京都の織物業者で、家伝の織物見本を携えてヨーロッパ諸国を巡って注文を受けている川島という人物に会い、彼のヨーロッパでの経験を次のように聞いている。
 「日本でもいずれ意匠の保護をするようになるでしょうが、図柄の保護とともに、色の配置の保護に重きを置くべきです。私の織物や布地の意匠は、ドイツ、フランスでたびたび盗まれています。盗作の見本をお送りしますから、本物とよく見くらべて下さい。」
是清氏は川島の送ってきた見本をみて、意匠の重要性を知り、日本に意匠制度を制定するきっかけになったといわれている。

 さて、前述ヘボン博士の版権がどのようになったのかは定かではないが、版権等に関する治外法権については、後に不平等条約の改正においても問題となった。1888年(明治21年)に農商務大臣となった井上馨氏が、是清氏に外国から輸入した新式の機械を保護するために、初めて輸入した者に専売特許を与えるような法律をつくるよう指示した際に、是清氏は次のように答えている。

 「英国に滞在中に聞いた話であるが、条約改正において日本から外国に求める事は多いが、外国から日本に求めるものは少ない。発明の保護については決定せずに、条約改正の時にうまく利用する方が日本のためである。」
 これを聞いた井上氏も法律を作成しないことに納得したという。以後、1894年(明治27年)の日英通商航海条約締結により、1896年(明治29年)に外国人からの特許出願が受け付けられるようになり、1899年(明治32年)にはパリ条約に加盟することとなった。

(以上出典、写真:高橋是清署「高橋是清自伝」中公文庫)


 このように発展していった日本の特許制度は、昭和11年には50周年を迎えた。これにちなんでNHKラジオが是清氏に「特許制度が始まった頃について」というタイトルで出演を依頼したが、彼はラジオ出演を好まず、依頼を断った。そこで、300人ほどの観客を集めた上で講演会として依頼し、講演席に少々物を置かせてもらうということで承諾を得た。しかし、是清氏が当日講演会場にいってみると、なんとラジオ用のマイクが置かれていた。さすがの彼もこれには応じるほかなく、彼にとって初のラジオ講演が行われることとなった。

 彼がラジオで講演を行うというのは非常に珍しい、ということでNHKは当時非常に重要な放送であった漁船通報を中止してまでその放送を行ったという。また、同講演では速記でメモがとられ、会場の出口で即座に配布されたため、人々は大いに驚いたということである。

また、特許庁には「高橋是清氏特許制度に関する遺稿」という文書が所蔵されている。これは高橋是清邸に保管されていた1885年(明治18年)前後の諸文献が、特許制度50周年を契機とした調査に際して寄贈されたものである。

 特許局の資料は関東大震災で全て焼失してしまっており、是清氏の私邸に保管されていたからこそ残っている非常に貴重な資料である。なお、この調査に際しては、当時特許庁の末席事務官であった長村貞一氏(第35代特許庁長官)が高橋是清氏からの聴き取りを行った。
 その際には、興味深いエピソードも残されている。例えば、ある発明狂が棺桶の特許を出願したが拒絶されたため、特許局に抗議を行った。このとき発明狂に追いかけられた是清氏は、テーブルの周りを七周半も逃げ回ったという。
 また、二人の出願人が特許庁に激しく抗議を行ったということがあり、警視庁の巡査が「不穏な動き有り」として二人を尾行した。二人がそば屋に入り、食事中「今後こういったことはやめよう」と話しているのを聞き、巡査は「以後、心配ありません」と報告したという。

(以上出典:特許庁「初代特許庁長官高橋是清について」  特許庁ウェブサイト https://www.jpo.go.jp/introduction/rekishi/shodai-choukan.html)